●○約束の海に還るまで

『今、海にいます。話したいことがあるので、気が向いたら来てください。……海で、待ってます』





留守番電話のメッセージは、淪のものだった。メッセージの時間は三十分ほど前だったが、あいつのことだ、まだ浜にいるだろう。

微かに苦笑を漏らして、俺は茜色に染まり始めた砂にさくさくと足跡をつけていった。


淪は、東から西まで何も遮るもののないこの南に面した浜辺で、陽が沈むのを見るのが好きだ。

天気のいい日はほとんど毎日、飽きもせずに夕日を眺めている。


いつだったか不思議に思ってその理由を訊いたら、淪はこんな答えを返した。


『地球の歴史が何万年、何億年と続いても、この空の色はこの一瞬だけ……。もう二度と、見ることはできないんですよ』



* * *



砂浜の中に、見慣れた後姿を見つけた。

もう夏も終わりに近い。陽が落ちれば潮風が冷えてくるだろうに、淪はTシャツ一枚きりの格好で、膝を抱えて座っていた。

脇に置かれたアイスティーのペットボトルは汗をかき、中身は半分以上が空になっていた。

まったく、どのくらいそうしていたのやら。


「――風邪引くぞ」


そう言って隣に座り込んだ俺の方を、淪が振り返る。


「沖原さん」


その目元が濡れていたのはおそらく気のせいではないだろう。しかし俺は、あえてそれを見なかったことにした。


「話って、何だ?」


淪は俺の名を呼んだきり、何も声を発しようとしない。俺の耳に聞こえるのは、波の音と海鳥の鳴き声だけだ。

ざざん、と少し大きな波が足元すぐ近くまで打ち寄せ、白く砕けて返っていった。





「…ちょうど、こんな日でしたよね」


淪が、ぽつりと呟いた。


「私が沖原さんと出逢ったのは、ちょうどこんな夏の終わりでした。あれからもう、何年経ったんでしょうね」

「……九年だ」


忘れるわけがない。それくらい、あの出逢いは衝撃的なものだった。おそらくそれは、淪にとっても同じことだっただろう。

そしてその日から俺たちは、かけがえのないものを手に入れてしまったように思う。それまで守るものなど持たずに生きていた点では、二人似た者同士だったのに。


それはちょうど、九年前のあの日からだった。


多少回りくどい話をする淪に軽い苛立ちを覚えたが、淪はそれが分かったのか、さらに言葉を続けた。


「今朝方、夢を見ました」

「夢? …どんな?」

「すごく、切ない夢でした。内容はおぼろげにしか覚えていないのに、胸が痛いほどの切なさだけは、はっきり覚えているんです」



それは、こんな夢でした。

そう言って、淪は話し始めた。



* * *



海辺に、少年と少女がいた。二人は愛し合っていたが、少女は死んでしまった。

二人は約束をしていた。生まれ変わってもまた、この海で会おう…と。


少年は待った。

大人になっても年老いても、この海岸で少女を待った。

そして再び少女に出会うことなく、彼も死んだ。


少女は生まれ変わり、少年に会いに来た。しかし彼はいなかった。

それでも彼女はずっとこの海で待ち続け、そして一生を終えた。


二人は何度も生まれ変わり、この海で待っていた。ある時は男、ある時は女と姿を変えながら、記憶は残っていなくとも、待つことだけは覚えていた。

けれどいつもすれ違い、二人が出会うことはなかった。



やがて少女は違う少女の姿で、違う少年の姿の少年に出会った。

外見は違っていても、お互いに待っていた相手だとすぐに気付いた。



* * *



「蝶の羽化を早送りで見るように、莫大な年月を私はずっと見つめていました」


そんな言葉で締めくくられた、淪の夢。――淪が何処にそんな切なさを感じたのか、俺にはよく分からないが。

第一俺は、前世の記憶だとか運命の出逢いだとかは信じない人間だ。


しかし俺はふと、思いついた質問を口にした。


「なあ、淪……。俺もお前もずっとこの海で生きていたのなら、過去に俺たちは出会ってなかったんだろうか?」


もしそうなら、初めて出会った時のあの強烈な印象にも説明がつく気がした。

しかし淪は少し微笑っただけで、肯定も否定もしなかった。


「沖原さん、そろそろ帰りましょう。暗くなってきましたし」


そう言って、淪は立ち上がる。その時立ち上がりながら淪が小さな貝殻を一つ、ポケットに滑らせたのを俺は見た。

ズボンの尻についた砂を払うと、その淪の後姿を追う。


「――もし、魂が永遠なら」

「ん?」


先を行く淪に追いついて並んだ時、ぽつりと淪が言った。


「この九年間なんて、通り雨みたいなものなんでしょうね」


俺が何も答えずにいると、潮風の中で淪の唇が言葉を紡いだ。



――おそらくこの時、淪は、やがて来る運命を悟っていた。



* * *



淪の部屋のカーテンが、窓から吹き込む潮風に揺れる。しかしこの部屋にいるべき存在(ひと)は、もう二度とここには還ってこない。


こざっぱりとした空間を見回す。と、本棚の隅に幾つかの硝子瓶が並んでいるのに気付いた。

中には、白い小さな貝殻。そして貝殻が一杯に詰まったものが九つ、十個目の瓶にはまだ、底の方にいくつか散らばっているだけだった。

――これが何を意味するのかは、すぐに分かった。


俺はその瓶を全て抱えると、海に向かった。


それは淪が生きた証――淪のいた歳月そのものだ。一日に一つずつ、そうやって海(ここ)での日々を数えていた。



海辺に立つと、波でジーパンの裾が濡れた。しかしそんなことお構いなしに、俺はそこで瓶の蓋を取った。

あの日淪が、風の中で告げた言葉がよみがえる。


『でもおそらく私は、通り雨が止んでも、この海に還ってきます。ここで沖原さんを永遠に待っていると思います』


(淪……分かった)


瓶を傾ける。淪の時間が白い砂となって、海という砂時計に降り積もる。淪が、海に還ってゆく。





『今、海にいます。話したいことがあるので、気が向いたら来てください。……海で、待ってます』



fin.

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テーマはせつなさ。切なさでもあり、刹那さでもある。
むしろ切ない=刹那いなんだろうなぁと、しみじみ思います。
その切なさを如何に伝えるか…頑張ってみたけど玉砕でした。

沖原と淪の関係は、恋人とか友人とか明確な言葉でくくりたくなかったんです。愛情とか友情とかでは語れない、人と人との関係…みたいなのが書きたかったので。
だから、あえて淪は中性的な感じにしています。





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