●●○月の照らす道
「私も神の存在なんか、本当は信じていないんですよ」
告げられた言葉に、俺は思い切り頭を殴られたような気がした。
「だからね、こんな格好をしてこんなものを身につけている自分が、時にものすごく情けなく思えるんです」
そう言って彼は、首から下げた十字架を取り出して見せた。
――聖職者ではなく、ひとりの人間として、あなたと話がしたいんです。
教会を出るときに言われた言葉の意味が、今分かった。
ほどほどにざわめいた昼下がりのカフェ、この神父の告白を聞くものは俺以外、多分いない。
* * *
教会に足を向けたのは、ほんの気まぐれだった。
神に救いを求めていたわけでもないし、元々信仰心なんてちっとも持ち合わせていないのだ。ただ、前々から何度か知り合いに、日曜ミサへの参加を勧められていたのを思い出したからというだけである。
結局ミサに参加しても、それは時間の無駄遣いに過ぎなかった。
聖書の文句も神父の説教も、俺の心にはちっとも引っかからない。大体神の救いというところからして、胡散臭い。
そんな俺の態度が目に余ったのか(前の席に陣取ったものの、ミサの間中不機嫌そうな顔をしていれば当然かもしれない)、ミサの後で神父に声をかけられた。
彼は“神父=老人”という俺の固定観念を打ち破るごとく、俺より少し年上に見えるだけの男だった。
――ミサは初めてですか?
裁断の前に立っていた時の厳格な姿とは打って変わった、人のよさそうな笑顔をしていた。
――はい。
――どうでしたか?
一瞬、俺は返事に困ったが、素直な感想を述べることにした。
――正直言って、宗教は僕の性に合いません。神なんて非科学的だし、死後の救いなんて求めてもしょうがない。
神父は少し驚いた表情をしたが、俺の予想に反して、怒り出すこともなくすぐにまた温和な笑顔に戻った。
――そうですか。確かにそう言われると、返す言葉がありません。あなたは無神論者なのですね。
――無神論とかどうとか言ったって、科学的に何の根拠があるのですか? 大体神がこの世にいるとしたら、随分といい加減で、無関心で、不公平な方なんですね。
神父が怒らないことを知った俺は、思わずムキになって意見を述べた。
しかし彼は怒りはしなかったが、ふと寂しげな顔をした。
――あなたは、何か悲しいことがあったのですか?
真摯な目をして問いかけられた言葉に、俺は何も答えられなかった。あまりに予想外な言葉だったからだ。
そしてそれは、限りなく図星だった。
そんな俺の心中を読み取ったかのように、彼はこう言った。
――少し、話を聞かせてくれませんか?
* * *
「人を本当に救ってくれるのは、神様じゃないんですよ」
ゆっくりとコーヒーをかき混ぜながら、神父が言った。
「私も数年前、とても辛いことがありました。もう二度と抜け出せない、大きな闇に迷い込んだようでした。もちろん私は、神に救いを求めました。でも……」
そこで彼は、少し言葉を切った。そして俺の顔をじっと見つめて、静かに継げた。
「私に手を差し伸べてくれたのは、神ではなく、人間だったのです」
当たり前だ。しかし、彼はさも素晴らしい発見をしたかのような顔をしている。
「――あなたの話を、聞かせてくれませんか?」
教会でされたのと同じ質問を、もう一度、静かに問い掛けられた。
目の前に置かれたコーヒーを一息に飲み干すと、俺は全てをかいつまんで話した。
数年前、誰より大切な人がいたこと。
不可抗力だったとはいえ、彼女を傷つけて未来を台無しにしてしまったこと。
そのことを知った人々に、散々責められたこと。
それにより社会的地位を失った俺は、決して表に出ることのない立場に甘んじなければならなくなったこと。
それ以来ずっと、彼女への罪悪感に悩まされていること…。
今まで、真実を誰かに話したことはあっただろうか。全てを知っている者は、当事者である彼女を含めても五本の指に満たない。
「僕はきっと、最初から生まれてくるべきではなかったのでしょう。昔から回りの人間を、知らず知らず傷つけてばかりだったんですから。生きている限り他人を傷つけてしまうのなら、生きていたくなんかない――そう、何度も思いました」
自虐的な言葉は、だがしかし、俺の本心だった。
驚いたように軽く目を見開いた神父は、コーヒーカップを両手で包み込みながら、こう言った。
「あなたは純粋な心のまま、大人になったのですね」
まさか俺が、――純粋?
しかし、彼は決してからかっているわけではないのだ。その声はあまりに優しくそして少し悲しげで、俺を慈しむような、いたわるようなものに聞こえた。
「誰もが誰かを傷つけて、誰もが誰かを支えて、そうやって生きているんです。だから、傷つけることを恐れる必要はないんですよ。呼吸したり、物を食べたりということと同じくらい、普通なことなんです」
「それは、あなたの辿り着いた結論ですか?」
「いいえ。私が――ただ私が、そう思いたいだけなんです」
穏やかだが、どこか切なさのこもったその言葉に一瞬、彼の中にある闇を見た気がした。
神父は神ではない。
最初から分かっていたことなのに、俺は彼が何か人間を超えた存在だと思い込んでしまっていたようだ。
そこで俺は、質問を変えた。
「じゃあ、俺はこの世界にいてもいいと思いますか?」
答えの代わりに、少しの沈黙があった。そして、
「あなたは月が好きですか?」
出し抜けにそう問い返されたのだった。
さすがに咄嗟には何も答えられないでいると、神父は言葉を続けた。
「月というものは、太陽の光を受けて輝きますよね。だけどその月も、地球上を照らすことができるわけです。尤も眩しさは太陽には及びませんが、太陽にはない美しさや優しさがそこにはあると思いませんか?」
だから私は、月が好きです。
彼は静かにそう告げた。
「人もそうなのですよ。誰もが誰かを照らし、照らされ、生きているのです。太陽の光では眩し過ぎる人は、月の光を求めるのです。あなたも、誰かを照らすことができるのですよ。必要のない人間など、いないのです」
誰もが月となり、太陽となり、生きている。
目から鱗が落ちた気がした。
「神の赦しなど求めなくても、そこに生きているというだけで既に赦されているのではないか――。いつからか私は、そう思うようになったんです」
一見俺を諭すようでいて、実は自分に言い聞かせているのだと気付いた俺は、結局もう何も言葉を発することはなかった。
夜空の下、家路を辿る。
雲間から一筋の月光が、地上を照らし出した。
男はふとそれを見上げる。
彼は自分の向かう道が、その光に照らし出されたような気がした。
fin.
----------
元々長編小説のために作ったキャラクターと設定とエピソード。
ふと一部分だけ書きたくなって、書いたものがこれです。
サイト名やHNなどに使用しているように、私は月が好きです。
私も、太陽の光では眩しすぎる人間なんです。