●○花に落つる涙-1

「来たか、雪村!」


薄暗い部屋の奥から書物を掻き分けて出てきたのは、髪はぼさぼさ、顔には無精髭が生え放題という姿の榛沢黄梅(はるさわおうばい)だった。

研究を始めると食事も風呂も忘れてしまう黄梅の性格をよく知っている京堂雪村(きょうどうゆきむら)は(むしろその傾向は雪村の方が酷いこともあり)、あえてその姿については何も言わなかった。


「見てくれ、ついに成功したのだ」


そう言って黄梅が差し出したのは、淡い紅色の花をつけた小さな木の苗だった。それを見た途端雪村は眉間に皺を寄せたのだが、そのことに気付いてか気付かずか、黄梅は興奮した口調でまくし立てる。


「例の花だ。ある植物とのかけ合わせによって、種子ができぬまま枯れていく花が咲いたのだ。これとかけ合わせたなら、国中からこの花が死に絶えることだろう。――そうだな、私の計算では、ちょうど三十年で」


嬉しそうな表情の黄梅と対称的に、雪村は厳しい表情のままで、静かに唇を噛み締めていた。


「どうした? 労いの言葉のひとつくらい、掛けてくれてもよかろう」

「………てくれ」


押し殺した声で、雪村がうめいた。


「何だ?」

「その花の研究はやめてくれと、何度も言っただろう!」


唐突に怒鳴られて、黄梅は呆然としてしまった。しかしすぐに気を取り直し、反論を試みる。


「雪村。私だって何度も言っただろう、この花は………」

「この花が絶えることがどんなに恐ろしいことなのか、おまえにはまだ分からないのか、黄梅!」

「おまえこそ、どうして分かってくれないのだ!」

「分かるはずがなかろう。間違っているのはおまえなのだ。こんなもの………!」


言うが早いか雪村は黄梅の手から苗を引ったくり、その花を握り潰した。そしてそのまま、足早に去って行ってしまう。


「……どうして分かってくれない、雪村あっ!」


床に思い切り叩きつけたその拳の傍には、雪村に握り潰された薄紅色の花弁が弱々しく落ちていた。



* * *



京堂雪村と榛沢黄梅――二人は身分の低い武士の家に生まれ、幼い頃より共に学び、同じように学者の道を志した。

望み通り学者となった二人が研究の題材に選んだのは、植物であった。


ところで、当時江戸の町で学者たちが競って研究していた植物があった。

それは昔から何処にでもあったような植物なのだが、誰もその正しい名前を知らない。

不思議なことに、薄紅色のその花が傍にあると、人はみな穏やかな気持ちになる。悲しむ者の涙は止まり、腹を立たせる者の怒りはおさまる。

数年前からの研究により、その花は人の感情を吸収し、それを養分として咲くことが分かってきた。そのためこの植物は現在、《想花(おもいはな)》と名付けられている。

想花のおかげで、人は必要以上の悲しみや怒りを心に溜め込まなくて済む、という説が定説ではあるが、謎めいたこの花を研究する者は後を絶たない。雪村や黄梅も、そんな学者の一人であった。



雪村は想花の性質の研究そのものに力を注いでいた。それに対し、黄梅は想花を根絶やしにする方法を研究してきた。


何故黄梅は、そのような研究をするのか。

その理由は、十数年前、姉のうめが流行り病で命を失った時の出来事にある。

黄梅十二歳、うめ十五歳、うめが許婚の若い武士の元へ嫁ごうという、まさにその直前のことであった。


幼い頃にに母を亡くし、三才年上でしっかり者のうめがずっと母親代わりだった黄梅にとって、それは大きな衝撃だった。

――そのはずであった。


うめの葬式の翌日、黄梅は家の近くの山に登り、その上から町を見下ろしながら、ぼんやりと考え事をしていた。

そこに、不意に誰かがやって来た。


――なんだ、おまえか。


それは若き日の雪村であった。


――こんなところで、何をしているのだ?


そう言って、雪村は黄梅の隣に腰を下ろした。


――……人が死ぬとは、このようなことだったのか?


突然、ぽつりと黄梅が言った。


――母は、物心つく前に死んでいた。身内の死は、これが初めてだ。

――どうした、弱気になっているのか?

――違う。


驚いて黄梅の横顔を凝視した雪村に、黄梅は無表情に続けた。


――私は姉のことが好きだった。とても大事に思っていた。それなのに……。


黄梅は振り返り、悲しげに微笑んだ。


――どういうわけだろう。涙が、出ないのだ。

――いいことではないか。人が死ぬ度に泣いていては、立派な侍にはなれぬ。

――そうではない。


言って、黄梅は脇に咲いていた薄紅色の花を摘み取り、雪村の方へ差し出した。


――想花だ。知っているだろう? 人の感情を糧として咲く花だ。こんなものがあるために、俺たちは大切な人の死も悲しめぬ。

――それは違うな。想花がなければ人間は、感情で爆発してしまう。人は悲しみ過ぎても怒り過ぎても、喜び過ぎてもいけないのだ。

――本当にそうなのか? 感情を想花から解放することこそ、正しいことだとは思わないか?


雪村はそれを聞いて、まるで魔物でも見るかのような目で黄梅を見つめた。



それから数年後、姉・うめの名をとって“黄梅”と名乗るようになった彼は、想花の研究を始めた。

黄梅も雪村も、十二の頃から考えは変わっていない。もう十何年も、想花に関してだけは、二人の間で対立が続いている。

そればかりか、ここ数年は他のことでもたびたび衝突し、どこかぎくしゃくした関係になってしまっているのだ。


そのようなわけで現在は、町の端と端に居を構え、植物学者のかたわら薬草を用いて人々の病を治すことを生業としている。


(雪村……私たちが分かり合うことは、もうないのか?)



* * *



それから数日後の、夕暮れのことだった。



「京堂先生、京堂先生!」


雨の中を駆けて来た一人の青年が、京堂雪村の家の扉を叩いた。彼の名は清水風雅(しみずかぜまさ)、雪村のただ一人の弟子である。


「どうした、風雅?」

「大変です、榛沢先生が……!」


よほど急いできたのだろうか、そこまで言ったところで息が切れ、言葉を続けられなくなってしまった。

あまりに慌てた風雅の様子を見、しかも榛沢黄梅の名を耳にした雪村は、いやな胸騒ぎをおぼえずにはいられなかった。

雪村は急いで風雅を家の中に入れ、雨が入って来ぬように、扉をぴしゃりと閉めた。そして話の続きを促す。


「黄梅が? 何があったのだ?」

「そ、それが……、先程町の噂で聞いたのですが、今日か明日か、近いうちに榛沢先生が旅に出るというのです。榛沢先生がついこの間想花の研究に成功したと、京堂先生から聞いたばかりだったので気になり、こうして伝えに来たのでございます」


雪村と黄梅の仲が険悪なことは、もちろん風雅もよく知っているところだ。


「何のための旅だ? まさか、例の想花を日本中に……?」

「もしかしたらそうかもしれませぬ」

「そうか………」


雪村は苦い顔をして、奥歯を噛み締めた。


「京堂先生は、どうなさるおつもりですか?」

「どう、とは? 私がすべきことは、ただ黄梅を引き止めることだけであろう」


「それはそうですが……」


歯切れの悪い風雅の言葉に、雪村と黄梅の関係が悪化することを気にしているのだと気付いた雪村は、ぴしりとこう言い切った。


「心配は要らない。私たちが分かり合うことは、もう二度とないのだ」

「そうは申しましても……」


非常に言いにくそうに、風雅は言葉を述べる。


「先生と榛沢先生は、確かに想花に関しては意見が全く違っていらっしゃいます。ですが、他のことに関しては、数年前まであんなに協力していらっしゃったではありませぬか。本当は、仲直りをしたいと思っていらっしゃるのでは、と思わずにはいられないのです」

「風雅……」


雪村は感情の読めない低い声で、風雅に問うた。


「おぬし、歳はいくつになった?」

「は、十八にございます」

「図体ばかり大きくなっても、まだまだ子どもだな。私たちは根本的に考え方が違うのだ。子どもの喧嘩ではない。仲直りをしようなどとは、夢にも思わぬ」

「しかし……」


それまで座って話を聞いていた雪村が、いきなり立ち上がった。びくりと肩を震わせた風雅には目もくれず、薬草が散乱している畳の上を片付け始めた。


「余計な口出しはしなくていい。黄梅との決着は、私が自分でつける」


その声がどこか悲しそうに聞こえたのは、風雅の聞き違いだったのだろうか。


「今日はもう、帰っていいぞ」


その声を合図に、風雅は小さく一礼して去って行った。


扉がぴしゃりと閉まる音を背中で聞いた雪村の手には、小さな茶色い薬包紙が一つ、握られていた。



next.





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