●●○花に落つる涙-2
その日は夜になってもまだ、しとしとと雨が降り続いていた。
その中を、雪村は傘をさして出掛けた。行き先はもちろん、黄梅の家である。
「どうした、雪村」
旅の支度を整えてしまったのか、すっかりがらんとした家の中から出てきた黄梅が、驚いた表情で雪村を出迎えた。
それもそのはず、先日あのような別れ方をしてしまったのだ、まさかやって来るとは思ってもいなかったのだろう。
「おまえの実験の成功と、旅立ちを祝って、な」
そう言って雪村は片手に提げていた、一升瓶を見せた。途端に、黄梅の顔がほころぶ。
「祝い酒か。有難く、頂戴しよう。さあ、入ってくれ」
「ああ」
迎え入れる黄梅は、雪村の目がやけに真剣だったことに、気付いていなかった。
「まさか、もう一度こうやって、おまえと酒を酌み交わす日がくるとはな」
酔ったせいで、上機嫌に話す黄梅。しかしこれは、本音でもあった。
「俺は明日旅に出る。今日は最後の夜だ。大いに祝ってくれ!」
今日何度目か知れないその科白を、相変わらず無表情で雪村は聞いていた。
「すごいだろう。想花なんて忌まわしいものが、国中からなくなるのだぞ。これで皆、思う存分涙を流し、思う存分笑うことができる」
「――そうだな」
「やはり、俺とおまえは真の友だったのだな。いつか分かってくれるだろうと、いつも信じていたぞ」
その言葉を聞いた雪村は、目を伏せてふっと笑った。
「おまえも嬉しいのか? そうだろう。何故もっと早く、分かり合えなかったのだろうな」
さらに雪村は笑い続け、ついに声をあげて笑い始めた。
それを見てさすがに不思議そうな顔をした黄梅に、雪村は笑いながら言った。
「いつまで経っても、おまえは単純な人間だ。想花などを調べるよりも、もっと人を疑うことを学んではどうだ?」
「何のことだ?」
「この、酒のことだ」
言って雪村は、自分の手にしている杯を掲げて見せる。
「私はこの中に、ある薬を混ぜておいたのだ。そろそろ毒が回り始める頃だろう。おまえの考えが変わらぬ限り、生かしておくことはできない!」
「何を、言っている?」
信じられぬような表情で、黄梅は雪村を見つめる。その告白で、既に酔いは半分以上醒めていた。
「想花があってはいけないなどと、考えることこそ危険なのだ。人は感情のまま生きているのではない。それでは犬や猿と同じではないか。それなのに際限なく感情を求めるとは、おまえは心の魔物、《心魔》だ!」
「違う、そうではないと、いつも言っているだろう!」
結局二人は、分かり合えてはいなかった。
しかし雪村は、別にいつもの議論をしに来たわけではない。不敵に笑むと、冷ややかな声で黄梅に最終宣告を始めた。
「おまえが選べる道は、二つにひとつだ。このまま毒が回って死に絶えるか、それとも……」
「…うぐっ!」
突然黄梅が胸の辺りを抑えて、倒れ込んだ。その姿を見下ろしながら、雪村は懐から白い薬包紙を取り出した。
「ここに解毒の薬がある。ただし、一人分だ。おまえが想花の研究を今後一切やめることを誓うのなら、これをやる」
黄梅の選択肢は、ありそうで、実はない。
想花の研究をやめるわけには、もちろんいかない。
それより何より、毒入りの酒は雪村も飲んでいるのだ。決して分かり合うことができなくとも、たとえ毒を盛られようとも、黄梅にとって雪村は一番大切な友であった。雪村を見殺しになど、できるわけがない。
恨めしげな、それでもなお雪村に救いを求めているような目で見つめてくる黄梅を見下ろして、雪村はふと寂しげな表情を見せた。
黄梅との別れを悲しんでいるのか、最期まで分かり合えなかったことに対してなのか、それともいつまでも自分のことを信じようとする黄梅の愚かさに同情しているためなのか。
それはおそらく、雪村本人にも分からなかったことだろう。
「結局そうやって、感情に振り回されて死ぬのか?」
静かな声で黄梅に語りかけた声は、雨音に掻き消されていった。
「……感情を解放することの、どこが、間違っているというのだ…ッ?」
息も絶え絶えに、黄梅が訴える。
「さようなら、黄梅」
穏やかにそう言って、雪村は去った。
幾筋も雪村の頬を濡らす雨粒の中に、いつのまにか涙が混ざっていた。
翌朝、さすがに気になって訪ねてみた黄梅の家は、もぬけの空だった。
それきり黄梅は、雪村の前から姿を消した。
が、その様子を見た雪村には、彼がどこかで生きているだろうという、妙な確信があった。
* * *
「京堂先生、来てくださいませ!」
若い娘の声に呼ばれてその家から出て来たのは、人当たりのよさそうな、五十歳くらいの初老の男だった。
「どうしました?」
「うちの父が、急に倒れて、熱もありますし……とにかく診てやってくださいませ!」
「ええと、あなたの家はどこでしたかね? あまり見ない顔だが……?」
「旅の者です。数日前に来たばかりで、町外れの空家に住んでおります」
その初老の医者は一瞬何かに気付いたように鋭い目になったが、娘の案内で町外れの空家へと向かい始めた。
京堂雪村が榛沢黄梅に毒を盛り、黄梅が姿を消してから三十年が経った。
黄梅の消息は全くつかめなかったが、種子を作らずに枯れていく想花はいくつも発見した。
そのため雪村は相変わらず想花の研究を続けながら、町医者の仕事をしていた。
雪村が辿り着いたのは、予想通り黄梅が以前住んでいた家であった。
中を覗くと、六十代半ばか、下手をすると七十にも見える老人が横たわっていた。
「どうしましたか?」
そう言って老人の顔を覗き込んだ時、雪村は息が止まったかと思った。
「――榛沢…黄梅……」
思わず口にした、その名前。
その老人の顔は、あまりにも黄梅にそっくりだったのだ。
「あなたは外で、水を汲んで来なさい」
そう娘に指示し、二人きりになったところで改めて、雪村はその名を呼んだ。
「黄梅? 黄梅なのか?」
「……雪村?」
老人がゆっくりと、瞼を開けた。
「黄梅、――年をとったな」
これは率直な感想というより、疑問だった。
雪村と黄梅、二人は同じ年だったにもかかわらず、今はどう見ても、その風貌には十才以上の差があるのだから。
「あの時の、毒のせいだ。あれから、年をとるのが早くなった」
「私も同じだ、黄梅。私も年をとるのが遅くなったのだ。どうやら私は、解毒剤のせいらしい」
ふ、と黄梅は微笑した。
「私の命は、もう長くはない。想花を根絶やしにしようとした、罰があたったのだろうか……」
その言葉を聞いた雪村はたまらない気持ちになり、愕然として尋ねた。
「私のことを恨んでいるか、黄梅?」
その問いに答えはなかった。黄梅はただ雪村の顔を見つめ、やがてぽつりと言葉を紡いだ。
「――なあ雪村、私は、間違っていたのか?」
その問いに答えたのは、雪村の目からこぼれ落ちた、一粒の涙だった。
fin.
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元々は現代を舞台に書き始めた《想花》を巡る物語だったけど、発端の部分を書こうと過去編を作ったら、こっちの方がさくっとできてしまったという。
どちらが善でどちらが悪とか、どっちが正しいとかじゃないんだけど、それでも相容れずに対立してしまう二人…って感じです。
悪役を書く難しさを痛感しましたね。最初は榛沢さんが悪役だったんです。
だけど途中であの人間臭さに感情移入してしまい、彼が間違っているとは思えなくなって。
書き終えた後には、京堂先生の理屈や常識に縛られているが故の苦悩や葛藤も理解できる気がしました。
善悪って、本当に簡単には語れないんだなぁと思います。