●●○夏の日の夢-1
+ + + プロローグ + + +
薄暗い部屋の中、目の前に広がる世界が上手く認識できなかった。
予想もしていなかった光景に、一瞬、時が凍りついた。
さっきまで外で鳴いていた蜩の声すら、聞こえなくなったほどだ。
「未穂さん………!」
祐以は我に返り、未穂の傍に駆け寄ってその身体を抱き起こす。
血液特有の鉄臭さが鼻をついた。
手首に絡みついた紅いスジからは、まだ僅かに体液がにじみ出ていた。
辺りには安全剃刀と、空になった錠剤のシート。
未穂の顔は青ざめてはいたが、幸いまだ息をしている。
ハンカチを取り出して、止血のためにそれで未穂の腕を縛った。
そうしておいて、祐以は119番に電話を掛けた。
再び未穂の傍に戻って来ると、机の上にメモ用紙が置かれ、上にオルゴールが載っているのに気が付いた。
祐以は、何気なくそれの螺子を巻く。
メモには、未穂の字でこう書かれていた。
――お父さん、お母さん、ごめんなさい。霧沢くん、さようなら。
物悲しく響いていたオルゴールの音が、ぷつりと途切れた。
+ + + 1 + + +
霧沢祐以は、現在大学二年生だ。女の子のような名前ではあるが、れっきとした男である。
祐以は大学入学と同時にこの街に越してきた。
雪永未穂と出逢ったのは去年の春。
アパートの管理人の家に、最初に挨拶に行った時のことだった。
管理人の雪永透とその妻の栞と話していた時に、遊びに行っていたらしい雪永夫妻の一人娘が帰って来た。
それが未穂だった。
「未穂、霧沢さんよ。挨拶なさい」
栞に促され、未穂がはにかみながら会釈した。
笑顔の可愛い少女だった。
「霧沢祐以です。よろしく」
当時未穂は、高校一年生だった。
そんな彼女にとって祐以は、兄のような存在だったかもしれない。
実際、祐以も未穂も一人っ子であった。
休日になると、未穂はよく祐以の部屋に遊びに来た。
祐以には親しい友人も恋人もいなかったので、大抵の場合において彼は暇だった。
ある時は未穂に勉強を教え、またある時は二人でドライブに出かけ、そしてまたある時は部屋で音楽を聴き、そんな風にして時を過ごしていた。
次第に、二人の関係は親密になっていった。
しかしそれは、恋愛感情によるものではなかった。
どちらかというと、兄弟愛や家族愛に近いものだったのではないだろうか。
「霧沢くんのこと、私すごい自慢なんだ。学校の友だちも、羨ましがってるんだよ」
よく未穂は、そんなことを言った。
実際、未穂が友人を連れて遊びに来たことも、何回かあった。
「何で? 俺なんて、すごく平凡な人間なのに」
思わず、そう尋ねたことがある。
その時、未穂は少し考えてこう答えた。
「霧沢くんといると、何だか安心する。それに霧沢くん、夢を持ってるから。私たちにとって、夢を追ってる人は、すごく格好いい存在なんだよ」
祐以の夢――それは、本当に夢でしかないようなものである。
しかし未穂はそんな話を、いつも笑わずに聞いてくれた。
「未穂さんの夢は何?」
ふとそう訊いた時のことである。
「霧沢くんと、ずっと一緒にいること――かな」
自分の指先を見つめながら、未穂はそう答えた。
いきなり意味深な発言をされ、祐以は少なからず動揺した。
そんな祐以を見て、未穂はくすくすと笑った。
もちろん祐以だって、そのことを望んでいなかったわけではないのだが。
+ + + 2 + + +
「雪永未穂さんの、家族の方ですか?」
治療室から出てきた看護婦が、祐以に訊いた。
「そうですけど………」
未穂の両親には、まだ連絡していない。
というより、雪永夫妻はお盆の墓参りのために、一昨日から帰省している。
雪永夫妻は今晩帰る予定だったので、未穂が治療室に運び込まれた後に未穂の家に戻ってみたが、いなかった。
代わりに、留守番電話にメッセージが入っていた。
それは、交通機関の関係で明日帰ることになったことを非常に簡潔に伝えるものだった。
祐以は看護婦に促され、治療室へ入った。
「命に別状はありませんよ」
医者が、静かにそう告げた。
「傷もそんなに深くなかったので、明日には退院できるでしょう。ただ………」
医者は一旦言葉を切り、少し声のトーンを落として続けた。
「大量に睡眠薬を服用したようなので、目が覚めれば、の話ですが」
病室のベッドに、未穂は静かに横たわっていた。
青ざめていた顔には少し血の気が戻り、手首には白い包帯が巻かれていた。
しかしその白さが今は、痛々しい。
時刻はかなり遅くなっていたが、祐以は、眠り続ける未穂の傍から離れられずにいた。
祐以はただ黙って、落ち続ける点滴の雫を眺めていた。
そうでもしていないと、このまま時間が止まってしまうんじゃないかと思えるほど、辺りは静まり返っていた。
どれだけの間そうしていたのかは分からなかったが、やがて、未穂がゆっくりと目を開いた。
「……霧沢くん…………?」
まだよく舌が回っていないような声で、未穂は目に映った人物の名を呼んだ。
そして、ゆっくりと身を起こす。
「未穂さん!」
祐以の声が病室に響く。
それは意に反して、鋭く、きつい声だった。
「どうして、自殺なんか………!」
最後は、思わず言葉が詰まってしまった。それは、未穂の目から滑り落ちた、一筋の涙のためだった。
「だって、嫌だったの……怖かったの…………」
未穂は祐以にしがみついて、子どものように泣きじゃくった。
祐以はこれほど感情的な、そしてこれほど脆い未穂の姿を見たことがなかった。
「ごめん、未穂さん。嫌なら何も言わなくていいから」
優しくそう言うと、次第に未穂は落ち着きを取り戻した。
そしてしゃっくりあげながら、言った。
「私ね、すごく寂しかったの。誰のことも、信じられなかった。みんな私のこと、要らないって思ってるなら、いなくなったほうがみんなのためなんだって思って……」
そこまで言うと、未穂は涙で言葉を詰まらせた。
祐以は、何も言わなかった。自殺するほど思いつめていた未穂を、傍にいながら気付いてやれなかった自分が情けなかった。
「ねえ、霧沢くん? 私をどこか遠いところに連れて行ってよ」
まだ涙の残る目で祐以を見つめながら、未穂が言った。
「遠いところ?」
祐以が静かに尋ね返すと、未穂がゆっくりと頷いた。
「誰にも見つからないくらい、遠いところ」
+ + + 3 + + +
未穂を助手席に乗せ、祐以は高速を飛ばしていた。
結局祐以は、未穂の申し出を断ることができなかった。
夏休みなので学校には行かなくてもよいが、両親は心配するだろうと言ったら、未穂はただ一言、いいのと言った。
しばらくの間、二人は何も喋らずにいたが、未穂は時々思い出したように何かを喋った。
それらは昨夜の出来事の核心に直接触れることであったり、そうでなかったりした。
そのうち祐以は、ふと思い出した疑問を口にした。
「そういえば、何であのオルゴール置いてたの?」
あのオルゴールは、去年のクリスマスに祐以が未穂にプレゼントしたものだ。
愛らしい木彫りのウサギで、螺子を巻くとクリスマスソングが流れる。
「嘘でもいいから、信じていたかったから」
未穂がぽつりと答えた。
「あの歌の詞、教えてくれたでしょ?」
祐以がプレゼントにあのオルゴールを選んだのは、それが好きなアーティストの曲だったこともある。
ずっと一緒にいられると信じていられた、幸せな過去の出来事を歌ったクリスマスソングだ。
「あの曲、かけてくれる? 季節外れだけど」
未穂の言葉に、祐以は一本のテープを確認してカーステレオに入れ、少し早送りをしてから再生した。
静かに曲が流れ始めた。優しいアコースティックギターの音に乗せて、ヴォーカリストが一言一言を優しく語りかけるように、そして何故か泣きそうな声で歌う。
後奏にさしかかった時だった。
その静けさをぶち壊すように無粋な音で、祐以の携帯が鳴った。
ディスプレイの番号は、未穂の自宅のものだった。
雪永夫妻は家に帰って未穂がいないことに気付き、加えて車もないことを知り、祐以に居場所を知りはしないかと掛けてきたのだろう。
「未穂さん、ご両親からだけど」
「出ないで!」
「でも…………」
「電源、切って」
震える声でそう言われ、祐以は少なからず後ろめたさを感じながらも、電源を切った。
いつのまにか眠ってしまった未穂の寝顔を横目に見ながら、祐以は懐かしい町へと、アクセルを踏んでいた。
カーステレオからは、相変わらず様々なラヴソングが流れている。
祐以はそれのヴォリュームを少し下げた。
未穂が眠ってしまう前に、祐以は未穂に自分の実家の話をした。
お盆だということもあり、近いうちに帰省しようと考えていたと告げると、未穂は自分も行ってみたいと言った。
祐以の実家は、現在住んでいる都会から少し離れた、海の近くの小さな町だ。
田舎と言っても過言ではない。
幼い頃は自然に囲まれたその町が大好きだったが、大きくなるにつれ、都会に魅かれるようになった。
田舎町が、多少コンプレックスでもあった。
だからこそ祐以は、都会の大学を選んだ。
逆に未穂は、都会生まれの都会育ちだ。だから田舎という場所に対しての憧れがあった。
それに加え、祐以が生まれ育った町に対して、興味がない訳がなかったのだ。
next.