●○夏の日の夢-2

+ + + 4 + + +



半年以上帰らなかった我が家。

見た目にはどこも変わっていないように思える。

しかしどことなく、よそよそしい感じもした。

そんな複雑な気分で、祐以は呼び鈴を鳴らす。


「はーい」


家の奥から母親の声が聞こえ、それに続いて鍵が開けられる音がした。

そして、霧沢遥香が姿を現した。


「お盆だから、帰ってきたんだけど」


祐以が先に口を開いた。

遥香は息子の顔を見てから、その視線を祐以の後ろに隠れるように立っていた未穂に移した。


「あら、後ろのお嬢さんはガールフレンド?」

「いや、そんなんじゃなくて……。アパートの管理人の娘さんなんだ」


祐以は、中に入るように未穂を促した。


「雪永未穂です」


祐以に紹介され、未穂が会釈した。



今日も相変らず残暑が厳しかったが、祐以の家は全ての部屋が冷暖房完備なわけではない。

蒸し暑い部屋に入ると、遥香は冷たい麦茶を出してくれた。

未穂は両手でグラスをつつみ、そのひやりとした感触を楽しんでいた。


祐以と遥香は、お互いに近況を話した。

それは、他愛もない日常の出来事がほとんどだった。

そして少し話が途切れた時、遥香が思い出したように尋ねた。


「ところで、いつ向こうに帰る予定なの?」

「うん、はっきりとは決めてないんだけど……」


祐以は曖昧に答えた。


「あ、空いてる部屋ないかなぁ?」

「あるにはあるけど……いいの? 未穂ちゃん、高校生でしょ? うちに泊まるならご両親にちゃんと言っとかなきゃ…」


祐以が言わんとすることを察して答えた遥香の言葉に、未穂は反射的に祐以の顔を見た。

それは、何かに怯えたような、そして何かを頼むような目だった。


「いいって。俺からちゃんと連絡したから」


その目を見た祐以は、今すぐにでも電話をかけかねない様子の遥香を慌てて静止させた。





一人息子の祐以が家を離れてしまった霧沢夫妻にとって、この日の夕食は久しぶりににぎやかなものとなった。


その夜未穂が遥香とテレビドラマを見ている隙に、祐以は自分の部屋で、携帯から未穂の家に電話をかけた。

未穂には悪いと思ったが、やはり根本的に悪いことができない性格の祐以は後ろめたさに耐えられなかったのだった。


『はい、雪永です』


電話に出たのは、栞だった。


「霧沢ですけど、未穂さんのことでお話が……」

『祐以くん? 未穂のこと、知ってるのね?』


未穂の名を出したとたん、栞の声が高くなった。


「未穂さんは、今俺の家にいるんです。あ、実家の方です」


そこで少し言葉を切り、声のトーンを落として続けた。


「昨日、未穂さん自殺を図ったんです。手首を切って。傷自体はそんなに深くなかったんですけど、心の傷は深いみたいです。家には帰りたくないって言ってたんで、そっとしておく方がいいとも思ったんですけど………」


電話の向こうで栞が絶句したのが分かった。

祐以は黙って、栞が話し始めるのを待っていた。


『祐以くん、未穂に代わってくれる?』


やがて受話器から聞こえてきたのは、表情の見えない固い声だった。


「それは、できません」


祐以は躊躇わずに答えた。


『どうして?』

「本当は未穂さん、家に連絡もして欲しくないって言ってたんです」

『あなたは、そんなあの子の我儘を許すつもり? 私はあの子の母親よ。あなたは確かにあの子と仲がいいけど、うちの家のことにまで口を出す権利があるの?』


言いながら栞は、だんだん感情的になっていった。


「確かにそうですけど」


祐以は静かに話を切り出した。


「未穂さんが言ってました。両親は自分のことほったらかしにしてて、小言を言うばっかりで、話もろくに聞いてくれない。学校で辛いことがあっても相談もできない。だからずっと寂しかった、って。それに、雪永さんは今の未穂さんのことをどれくらい知ってるって言うんですか?」


静かに、それでも強い口調で祐以がそう言い切ると、受話器の向こうに沈黙が訪れた。

実際は一分にも満たなかったのだろうが、祐以にはそれがとてつもなく長い時間に思えた。


「…………ごめんなさい。余計なこと言いました」


静けさに耐えられずに、祐以が言った。


『いいのよ、本当のことだもの』


そう言った栞の声は、うって変わって穏やかなものだった。



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栞には、もし連絡することがあれば携帯にするようにと言ったが、結局あれから電話が掛かることはなかった。


都会を離れての日々は、穏やかに過ぎていった。

二人は一日中本を読んだり、テレビを見たり、音楽を聴いたり、普通に過ごしていた。

しかしいつもに比べると、確かに未穂の口数は少なく、見せる笑顔も弱々しいものだった。





ある土曜日、そんな未穂を祐以は小さなカフェに連れて行った。

連れて行ったというより、未穂がついて来たという方が正しいかもしれない。

とにかくそこは、この町に戻って来たら一度は行こうと思っていた場所だった。


祐以がこの店に通うようになったのは、高校二年生の夏休みのことだった。

市内にあるといっても、祐以もそれまで存在を知らなかった店だ。

そこには喫茶店のような近寄りがたさはなく、若者でも気軽に入れる雰囲気が人気だった。

それに加え、週末には店が開放され、地元の若者がライヴを行えるのも魅力のひとつである。

田舎といってさしつかえないこの町には、ストリートライヴを行えるような場所すらないのだ。


この日も、店内は音に満たされていた。

そんなに時間は遅くなかったが、客はまばらだった。

二十代半ばのカップルがコーヒーを片手に演奏に聴き入っている他には、演奏している少年たちの友人と思われる学生が五、六人いるだけだ。

少年たちが演奏しているのは、最近人気の高い若手バンドの曲のカヴァーらしい。

歌は決して上手いものではなかったが、熱意は伝わってくる。

楽器の方はなかなかのもので、練習の成果をうかがわせた。


曲のラストで激しく打ち鳴らされたドラムの音が、僅かに余韻を残しながら、夜の空気の中に吸い込まれていった。

ぱらぱらと拍手を送る観客たちに一礼すると、少年たちはステージを降りて祐以の方へと歩いてきた。


「霧沢先輩、来てくれたんですか?」


そう声を掛けてきたのは、先程歌っていた少年だ。


「先輩、何か演ってください」


ギターを弾いていた少年が、祐以にギターを渡しながらそう言った。

祐以は少し戸惑い気味の表情を見せたが、バンドのメンバーに加え、演奏を聞いていた少年たちも期待した顔で集まってきたので、しぶしぶそれを受け取った。


「当分ギター触ってないんだけどね。…で、何がいい?」


少年が挙げたのは、祐以の好きなアーティストの曲だった。

祐以は少し弦を鳴らし、その曲のギターソロ・フレーズを弾き始めた。

当分ギターに触っていないという割には、指の動きも滑らかで、一つ一つの音も綺麗に響いていた。


祐以が音を止めると、少年たちから拍手が沸き起こった。


「すごい……」


そう呟いたのは、未穂だった。


「霧沢くんって、ギター上手かったんだ」

「まぁ、昔はね………」


謙遜しているのか、照れているのか、祐以が未穂にそう言うと、少年たちの注目は未穂に集中した。


「霧沢先輩のカノジョなんですか?」

「名前は?」

「何歳?」


少年たちは未穂に、遠慮も何もない質問をぶつける。


「ただの友だちだよ。雪永未穂さん、高校二年生」


初対面の少年たちからの質問に戸惑う未穂に、祐以が助け舟を出した。


「なんだ、そうなんですか」

「ああ、やっぱり柿崎さんのこと………」

「馬鹿ッ」


少年の一人が他の一人の言葉を遮ったが、「柿崎」という名前は既に、皆の耳に届いていた。

一瞬気まずい空気が流れた。

少年たちのほとんどがその人物を知っているようだったが、何も知らない未穂だけが、この異様な雰囲気に戸惑っていた。


「……いや、いいんだよ。朱音のことは」


その雰囲気を打ち消すように、祐以がそう言って笑って見せた。

少年たちは、また何もなかったかのように話し始めた。

しかし、未穂は少年たちの質問に時折答えながらも、見たこともない『柿崎朱音』という人物のことが、頭から離れずにいた。

勝手に詮索するのは悪いと思いながらも先ほどの少年たちの意味深な発言のせいもあり、どうしても気になって仕方がなかった。



next.





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