●○真夏のデ・ジャ・ヴ〜遥かなる命の詩<うた>〜 -2

萌葱の前にあの男が現れたのは、その日の昼過ぎのことだった。


一人でぼんやりと医者の言葉と咲麗の表情を思い出していた時、インターフォンが鳴った。新聞の集金とか、宅配便とか、回覧板とか、どうせその類だろうと思ったのであまり気乗りはしなかったが、咲麗のこともあるしまさかの場合もあるので出ないわけには行かない。

玄関の鍵を開け、扉を開いた。


「こんにちは。鶯花萌葱さん、ですね?」


そこに立っていたのは、一人の若い男だった。

年齢は自分より、三才から五才は上だろうか。サングラス――というより青い色眼鏡を掛け、髪は茶色く染めており、耳にはピアスのようなものを三つもつけている。けれど服装はいたってまともで、この厚いのにシャツのボタンは一番上まで留め、ネクタイまで締めている。

一瞬セールスマンかな――とも思ったが、不思議と警戒心は抱かなかった。


「咲麗さんのことで、お話があるのですが」


姉のことを持ち出されては、まさか追い返すわけにはいかない。


「どうぞ、上がってください」



「僕はこういうものです」


差し出された名刺には、肩書きはなかった。ただ、名前と携帯の番号があるだけだ。名前は“杉山敦”とあった。


「姉は今、記憶を失っています」


萌葱は沈痛な面持ちで、杉山に告げた。


「――その件ですか?」


杉山は黙って頷き、言葉を肯定する。


「…何故……?」

「何故、咲麗さんの記憶がないことを僕が知っているか、という質問ですか? それとも、どうして僕が君のお姉さんのことで此処に来たのか、ですか?」


杉山は落ち着いた声で尋ねた。あまりに落ち着いているので、その声は何処となくこの状況を楽しんでいるようにさえ聞こえた。


「両方、です」


少しむっとして、萌葱が答える。

杉山はちらりと萌葱の顔を見ると、唇の端を曲げて笑みの形にした。そして目の前に置かれたグラスの烏龍茶で少し口を湿らせてから、再び話し始めた。


「僕はあの日、あの場に居合わせていました。分かりますね? 咲麗さんが倒れた、あの葬儀の時です。そして実は、ずっと咲麗さんを観察していました。注意しておきますがこれは僕の意思ではなく、ある人から頼まれたためです。記憶をなくしたということは、見舞いに行った時にあの医師から直接教えてもらいました。これが一つ目の質問の答えです。いいですか?」

「はぁ……」


一気にそれだけ喋ってしまった杉山に萌葱は何と答えていいものか分からず、間の抜けた声を発してしまった。杉山は更に話を続ける。


「二つ目の質問の答えですが、僕は大学で心理学を学んでいます。心や記憶のメカニズムに関しても勉強していますから、もしかしたら咲麗さんの記憶を取り戻す手助けができるかもしれないと思うのです。いえ、是非取り戻してあげたいと思います。そのためにも、あの日の咲麗さんについて何か気付いたことがあれば、どんなことでも教えてください」

「お気持ちは有難いのですが……僕にも姉にもあなたにそこまでしていただく理由がありません。支払えるお金もないし、両親にはこの事実を知らせたくないんで…」

「じゃあ君は、咲麗さんがこのままでもいいと言うのですか?」


それまで友好的だった杉山が、初めて声を荒げた。


「いえ、別にそういうわけじゃ……」

「それに、僕は君からお金をもらおうなどとは考えてません。お金のためじゃない、咲麗さんのためなんです」


きっぱりとそう言い切った杉山に、萌葱はそれ以上何も言い返せなかった。だから変わりに、何となく納得できない想いをぶつけてみる。


「あなたは一体、何者なんですか?」


杉山は一瞬不敵に笑んで見せると、こう答えた。


「今はまだ、僕について話す時ではありません」


萌葱は何故だか胸騒ぎを覚えた。杉山のその表情に、その声に、何となく引っかかるものがあった。まるで、初めて会ったのではないような、そんな感覚だ。



「そういえば………」


ふと思い出したことがあり、萌葱はゆっくりと口を開いた。


「何ですか?」

「姉が、言ってたんです。あの日、葬儀が始まる前に、こんな風景を以前どこかで見たと」

「あぁ、僕も聞きましたよ」


萌葱はこのことが重要なキーワードになるかもと思っていただけに、杉山の言葉に少なからずがっかりした。


「咲麗さんのような形で記憶を封鎖するきっかけは、大きく分けて二つあります」

「杉山さん、さっきの話は…」


萌葱は自分の話が無視されたような気がして、杉山の話に口を挟む。逆に杉山は右手を差し出し、萌葱の言葉を静止させた。


「一つは、非常にショッキングな場面を実際に見た場合。もう一つは、ショッキングな過去の出来事を思い出した場合です。咲麗さんの場合はあの言葉から、後者の場合だと考えていいと思います」

「それじゃあ…」

「あの時咲麗さんが何を思い出したのか分かれば、記憶を取り戻すための糸口がつかめるかもしれない」

「本当ですか?」


萌葱は少々興奮気味に、杉山に問い返す。今までの話は一応筋が通っているように思える。どこか信用しきれない部分はあるが、今はこの男しか、自分が頼れる人物はいない。


「あそこで、咲麗さんは何を見ていましたか? 隣にいた君になら、分かりませんか?」


その言葉に、萌葱は必死に記憶を手繰る。けれど思い出されるのは、ただただ葬儀の風景だけである。葬儀が始まるまでは咲麗から離れていたが、葬儀の最中はずっと咲麗の隣にいた。しかし――。


「別に、何も……」


萌葱はそう答えるしかなかった。


「ではやはり、お葬式の記憶自体に何かあるようですね。では、できれば明日までに、咲麗さんが今までに経験したお葬式について、思い出しておいてもらえますか?」


それだけ言うと、杉山は萌葱の了解を得ることもせずに去っていった。



* * *



次の日の朝、杉山は再びやってきた。


「おはようございます、萌葱さん」

「あのっ…俺に敬語なんか使わないでください」

「え………?」


顔を見るなり萌葱が言った言葉に、杉山は思わず真意を図り切れずに尋ね返す。昨日の少々険悪なムードからは、全く予期できない言葉だったからだ。


「俺、あれから色々考えたんですけど、やっぱり姉貴のことで頼れる人って今、杉山さんしかいないじゃないですか。だから俺、あなたのことを信じようと思うんです。どれくらい時間がかかるか分からないけど、しばらくは協力者だから、そんな他人行儀に話されたくないんです。それに、なんか萌葱さんっていうの、呼ばれ慣れないんで……」


そう言って萌葱は、少し照れたように笑った。そんな萌葱を見て、杉山もふっと微笑する。


「じゃあ、君もタメ口でいいよ」

「本当に?」

「そんなこと、嘘つく必要ないでしょ?」


あぁやっぱり…と、萌葱は思った。この喋り方、やっぱり昔聞いたことがある、と。もしかしたらこの不思議な感覚が、杉山を信じることにした決め手だったのかもしれない。


「じゃあ、これから咲麗さんの病院に行こう」

「でもまだ、面会時間じゃ…」

「大丈夫、先生の許可は取ってるから」


その言葉に押し切られるような形で、萌葱は杉山の車に乗せられた。


鶯花家から病院までは、車で約十五分程度。萌葱は助手席で杉山の横顔を見ながら、この人は本当に何者だろうと再び考えていた。しかし赤信号に引っかかった時、急に振り向いた杉山と一瞬目が合って、萌葱は慌てて目を伏せた。


「ところで」


ずっと黙っていた杉山は、その時初めて口を開いた。


「昨日あれから、俺の方でも一応調べさせてもらったんだ」

「何を……ですか?」


結局また敬語に戻っている萌葱に、杉山は少し苦笑を漏らした。


「咲麗さんが今までに経験した、お葬式について。結構あるんだね。萌葱くんは全部、覚えてる?」

「あぁ、一応全部思い出してみましたけど……全部で四回、だったと思います」

「ただし、先日のように真夏に行われたものっていうと…確か、三回だよね」

「そうです」


車が病院に着き、会話はそこで途切れた。



next.





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