●○真夏のデ・ジャ・ヴ〜遥かなる命の詩<うた>〜 -4

「姉さん、何か思い出した?」


静かに、萌葱が尋ねる。祈るような思いで。しかし、咲麗は一言も声を発しない。ただ俯いて、唇を噛んでいる。

やがて、咲麗の頬を一筋の涙が伝った。


「…姉さん……」


何と声を掛けていいか分からず、萌葱は躊躇いがちに呼び掛けた。杉山は、じっと咲麗を見つめている。

咲麗は、ゆっくりと首を横に振った。


「私、自分の名前が『鶯花咲麗』ということすら思い出せないんです。でも、自分のことを思い出したい……」


弱々しい声で告げられたそれは、自分の記憶について咲麗が初めて告げた本音だった。


「そんなに大切な記憶があるのに、過去があるのに、何で何にも思い出せないんだろう…」


泣き崩れる咲麗の背に、杉山がそっと手を当てた。


「大丈夫。いつか、必ず思い出せますよ。焦らなくてもいい。まだ、方法は他にもあるはずだから」


そういう杉山の表情も、非常に辛そうだった。何故だか理由は分からないが、杉山も萌葱と同じように、咲麗に過去を思い出して欲しいと心から願っているようだった。

涙で濡れた目で、縋りつくように杉山を見上げる咲麗。萌葱は、こんな時姉に何と声を掛けていいか分からない自分が恨めしかった。


「――また、来ます」


やがてそう言い残すと、杉山は萌葱を促して病室を後にした。



「……泣いてる?」


助手席でずっと俯いたままの萌葱に、杉山はたまらず声を掛けた。


「………いてません」


十分泣いているように見えるけど、と言うほど、杉山は無神経ではなかった。


「ごめん。悲しいこと思い出させた上、咲麗には何も思い出させられなくて」

「いえ。杉山さんのせいじゃ、ありませんから」


精一杯の明るい声で、萌葱は答えた。しかし、どうしても笑顔が引きつってしまう。


「本当に、すまなかった」


そう何度も謝る杉山の声こそ、かなり思いつめたようなものだ。しかしやはり、何と返事していいものか萌葱には分からない。


沈黙に耐えられず何気なくラジオをつけると、ちょうど午後一時の時報が鳴った。


「――あ、もうこんな時間…」


病院にいた時は、全く時間の感覚がなかった。


「そうだ、杉山さん。うちで、昼飯食っていきませんか?」


何気なく言ったつもりだったのだが、杉山はまるで不意打ちを喰らったかのように唖然とした顔で萌葱を見つめた。


「…お、俺何か変なこと、言いましたか?」


あわてて萌葱が尋ねる。


「いや、よく食欲あるなぁと思って。俺は全然ないんだけど」


杉山は、苦笑交じりにそう言った。


「ま、いいや。どうせ萌葱を送って行くついでだしね」



二人ともあまり食欲もないし時間も遅いし、ということで萌葱は昼食のメニューを素麺にした。手際よく面を茹で、薬味を刻む萌葱の動きを杉山はじっと見ていた。


「へぇ、萌葱って料理得意なの?」


そう声を掛けられて、萌葱は不意に振り向いた。


「別に、こんなの料理のうちにも入りませんよ。――まぁ、姉貴も料理好きだし、親も共働きだし、俺も昔からそこそこ料理してたけど」


そんなこんなで二人分の素麺が食卓に並べられた。

二人は何故か黙りこくったまま、黙々とそれを食べた。おそらく萌葱と杉山の頭をよぎっていたのは、咲麗のことだろう。

やがて、萌葱が口を開いた。


「――俺、何だか不安になってきました」

「何が?」

「姉貴のことです」


杉山はぴくりと、片眉を動かした。


「本当に、姉貴の記憶は戻るんだろうかって。時間が経てば経つほど、不安になるんです。それに、こうやって無理矢理姉貴の過去をこじ開けるのが、本当に姉貴にとっていいことなのか……」

「萌葱」


言葉を遮って、杉山が冷たく言い放った。


「さっき見ただろ? 咲麗は、自分の記憶を取り戻したがっていたじゃないか。今俺たちがやるべきことは、記憶が戻ることを信じてその手助けをすることだけなんだ」


萌葱は俯いた。


「それにな、確かに今まで封じていた記憶を思い出させるのは酷かもしれない。でも、過去に負けるわけにはいかないんだ。だって咲麗は過去ではなく、今現在に生きているんだから」

「でも……」


しかし、萌葱はそれ以上何も言い返すことができなかった。黙り込んでいる萌葱の代わりに、杉山が言葉を続ける。


「確かに萌葱の言うことも一理あるよ。でも、俺にも何が最善の方法かなんて分からないんだ」


それは、初めて聞く杉山の弱音だった。


「とにかく、今日のことは咲麗さんにかなり心理的なショックを与えたと思う。だから、少しそっとしておいた方がいいのかもしれない」


萌葱は、黙って頷いた。


「とりあえず、俺は俺でちょっと考えてみる。それで、次に病院に行く時は、また連絡する。だから萌葱も、何かあったらすぐに教えてくれないか?」

「分かり…ました」

「じゃ、これが俺の番号」


そう言って杉山はポケットの手帳を一ページ引きちぎると、そこに十一桁の電話番号を書いて差し出した。最初にもらった携帯の番号と同じものだったが、何も言わずに萌葱はそれを受け取った。


「ごめんな、今日は。色々と」

「いえ、別に」

「じゃ、昼飯ご馳走様」


そう言い残し、杉山は呆気なく帰ってしまった。



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