●○真夏のデ・ジャ・ヴ〜遥かなる命の詩<うた>〜 -6

一晩考えてみたが、結局萌葱は答えを出すことができなかった。

せっかく忘れているのに無理矢理に純麗の事を思い出させるのは、酷というしかない。けれど、決して咲麗に記憶を取り戻して欲しくないと思っているわけではない。やはり姉弟だし、大切な共通の思い出だって、たくさんある。純麗のことを教えないまま記憶を取り戻す方法があればそれが一番いいのではないかと、萌葱は思う。

しかし引っかかるのは、劉真が別れ際に言った言葉だ。


――それ以上に、純麗が可哀想だ。


何度もその言葉が、浮かんでは消えた。

分かっているのだ、萌葱だって、萌葱なりに。


完全に記憶から消えていたとはいえ、純麗は実の姉なのだ。ほんの数年の命であったとしても、命に変わりはない。それをなかったことにされるなんて――。わが身に置き換えてみれば、それはとても耐えられないことだった。しかも、咲麗は純麗の一卵性双生児なのである。


萌葱は答えを出せなかったが、劉真の答えは確実なもののようだった。それに加え、咲麗自身も記憶を取り戻すことを望んでいる(尤も、方法までは限定していないが)。多数決でいくならば、萌葱は明らかに少数派だ。

つまり、結局萌葱がどんな答えを出したところで、おそらく劉真は自分の信念通り、つまり咲麗に純麗のことを教えて記憶を取り戻させる、という手段をとるだろう。

その裏付けの如く、次の日劉真は病院の面会時間三十分前に鶯花家にやってきた。


やはり過去は過去として受け止めていかねばならないのだろうか。例え、それがどんな辛いことであったとしても。

助手席に座りながら、萌葱は相変わらずそのことばかり考えていた。

劉真はそんな萌葱を見ながら、病院までの道中、ついに一言も言葉を発することはなかった。



「おはよう、姉さん」


心なしか、姉に掛ける声もいつもより硬くなっているように感じた。


「おはよう、萌葱」


相変わらず記憶は戻っていないが、それでも咲麗はぎこちない姉弟関係を築こうとしてくれている。例えばまるで、幼い頃に別れ別れになった姉弟が再会した時のように。


「あ、おはようございます、杉山さん」


萌葱の後について病室に入った劉真への、挨拶。それを聞いて萌葱は、内心複雑だった。

確かに、自分は記憶を失っていないにも関わらず、情けなくも昨日やっと“杉山敦”の正体に気付いた萌葱である。一方の咲麗は、そもそも記憶がない。だから気付かなくて当然――といえばそれまでだ。

しかし、咲麗はともかく劉真は、ここで正体を明かすべきではないだろうか。仮にも三歳の頃からの幼馴染であり、萌葱のことすら覚えていなかった咲麗が唯一『懐かしい』と言った相手なのである。


「咲麗さん、見て欲しい写真があるんですが」


しかし劉真は、そんな萌葱の想いとは逆に、あくまで杉山敦≠演じるつもりのようだ。


「――これです。何が写っているか、分かりますか?」


咲麗は劉真から渡された例の写真を、注意深く観察する。


「子どもが三人、いますね」

「ではその子どもたち、誰だか分かりますか?」


咲麗は、小さく首を振った。


「どこかで見たような気もするし、初めて見るような気もします。――私が知ってる子どもなんですか?」

「知ってるも何も…」


注意して言葉を選びながら、劉真が答えた。


「これはあなたと、あなたの幼馴染たちとの写真なんですよ」

「幼馴染?」

「ほら、これは咲麗さんでしょう? それにこの男の子、覚えていませんか?」


劉真は写真の左端の少女、そしてその隣の少年を順に指差す。しかし別に、咲麗が写真を見て何かを思い出すことを期待しているわけではない。やはり、劉真も話の本題に入るのを躊躇っているのだ。

再び咲麗が首を振ったのを見届けてから、劉真は新聞記事のコピーを差し出した。


「これを、読んでみてください」


非常に辛そうな声で、劉真は最終宣告をした。自分にできることはここまでだ。後は、咲麗を信じて待つしかない。

咲麗はゆっくりと、記事に目を通した。

まず、一回、目が大きく見開かれる。おそらく、顔写真とともに書かれている名前を見てだろう。

読み進む内、もう一度目が大きく見開かれる。そしてその瞳が揺らぎ、涙が一筋、頬を伝った。


「……咲麗……?」


希望と不安を込めて、劉真が呼びかける。


「凄く…悲しい。胸が、ぎゅっと締め付けられるみたいに……」


消えそうな声でそう言うと、咲麗は視線を新聞記事から離した。そして何かをすがる様な双眸が劉真の顔に止まった途端、咲麗は劉真の両腕にしがみついて、声を殺して泣いた。

やはり萌葱は、黙って見ていることしか出来なかった。そして劉真もまた黙って、取り乱したように泣きじゃくる咲麗を見守っていた。


「悲しいけど、凄く懐かしい……。――覚えてる、あの日のこと」


涙の合間に咲麗が漏らした言葉に、萌葱と劉真は無意識に顔を見合わせた。


「姉さん!」


何かを思い出したのは、明らかだ。

咲麗は更に、言葉を続ける。――誰に言うでもなく、あえて言えば、自分に、だろうか。


「夕焼けが、綺麗な日だった。あたしは父さんに手を引かれて、萌葱は母さんに抱かれて、純麗ちゃんが道を渡ってくるのを待ってた」


劉真がそっと、咲麗の背中に手を当てた。


「――そう。それで?」


促されて、咲麗は続ける。


「純麗ちゃんが道を渡ってたら、真っ赤な車が突っ込んできた。あたしは凄く怖くて、泣いちゃって、そこから先はよく覚えてない…」


萌葱は、姉の語る過去にただ驚くばかりだった。

三歳の頃のことをここまで記憶していることにも感服するが、何より驚いたのは事故が咲麗だけでなく、萌葱自身の目の前で起こったという事実だ。とはいえ、当時の萌葱はまだ一歳になったばかりのはずである。覚えていなくても仕方がないといえば、確かにそうだ。

不意に、咲麗が顔を上げた。涙でぐしょぐしょになった顔で萌葱を見、そして視線が劉真に移された。


「…新出、くん……?」


ゆっくりと、目の前の人物の名が口にされる。名乗らなくても、分かったのだ。咲麗の記憶は、もうある程度元に戻ったのだろう。


言葉が見つからない萌葱の代わりに、劉真がゆっくりと口を開く。


「お帰り、咲麗」


劉真の言葉は、ただそれだけだった。しかしただそれだけで、劉真だけでなく萌葱の想いも全て言い表せたように、萌葱には思えた。



next.





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