●●○金木犀
激しさをすっかり忘れたかのような穏やかな日光が、窓から射し込んでいた。太陽の位置は、まだそれほど高くない。
暑い寒いも彼岸までとはよく言ったもので、今年もその通り、秋分の日を過ぎてからはすっかり秋らしい過ごしやすい日々が続いている。
「いつまで寝てるの?」
彼女の声。日曜日の朝は、いつも俺を起こしに来る。その言葉通り、カーテンを開け放たれた窓からは、強い陽射しが入り込んできた。
「ん……何すんだよ…」
「そっちこそ。そろそろ起きてよ」
彼女の言葉は聞かないふりで、俺は枕に顔を埋めてしまう。
「すっごくいい天気なのよ」
なかなか起きようとはしない俺を気にしているのか無視しているのか、今度は勝手に窓を開ける。途端、室温より少し冷えた空気がカーテンを僅かに揺らしながら流れ込んでくる。
その瞬間、風に乗ってきた甘い香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
「………キンモクセイ……」
「え?」
思わず呟いた俺の言葉に、彼女が尋ね返す。
「金木犀の匂いが、する」
「そうね」
俺は深呼吸をして、その香りを胸一杯に吸い込んだ。
「ねえ、知ってる? 金木犀って、毎年どこでも一斉に咲くじゃない。どうしてか知ってる?」
急に尋ねられたが、俺は何と答えていいか分からなかった。
「昔金木犀の花、ひとつだけ摘んで嗅いでみたことあるの。でも、何も匂わなかった。強烈に思えても、実は多くが集まって初めて、あれだけ香ってるのね」
「そう………か」
「でね、あたし思ったの。人間も同じじゃないのかな。どんなに小さくて弱くても、無意味に見えても、大勢が集まれば大きな意味を成すんじゃないかって。栄光に輝いている一握りの人たちひとりひとりじゃなくて、普通の人たちが大勢集まって初めて価値があるのね、きっと」
窓の前に立って話す彼女は日光に掻き消されそうで、手を触れたら壊れてしまいそうな危険を孕んでいるように見えた。まるで、強烈だけどはかない、金木犀の香りのように。
「そう思ったら、一人一人の存在意義なんて、大したことないのかもね」
「違うよ」
俺は静かに言った。
「どういうこと?」
俺の言葉に、今度は彼女が問い返す番だった。
「人類の価値なんて、たかが知れてるさ」
「そうかな?」
「でも、全人類なんてメじゃないくらい、たった一人の人間をとてつもなく大切に思うことだってあるだろ」
「………あるの?」
「あるんだよ」
俺は彼女を手招きする。言われるままに彼女はベッドサイドに腰掛けた。ぎっとスプリングが軋む音が響いた。
ふと手を伸ばし、彼女の髪にくしゃりと指を絡ませる。
「――な」
俺は僅かに笑んで見せると、その頬に掠めるようなキスをした。
彼女は嬉しそうに、少し照れくさそうに頷いた。
fin.
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元々書いていたショートストーリを一度同人小説のネタにして少しアレンジして、もう一度オリジナル作品に戻してみたものです。
あんまりオリジナルで恋愛は書かないんですけどね。
特にショートストーリーでは。
ちなみに金木犀の花ひとつのくだりは私の実際の体験が元ネタです。